野生の中にある知性
「自分が正しいと思っている人、確信に満ちている人は、
言葉でないものを感じたり、わかったりということを投げ捨てている」
と、言っているのは、ロングセラー『100万回生きたねこ』で知られる
絵本作家の佐野洋子さん。
2010年に亡くなってしまいましたが、晩年に書かれたエッセイがどれもおもしろく、
私は、無性に爽快感を味わいたい時、佐野さんのエッセイか、
『走れメロス』を本棚から引っ張り出してきて、読み返しています。
さて、佐野さんの『ふつうがえらい』というエッセイの中に、
イラストレーターの沢野ひとしさんとのやりとりが
おもしろおかしく書かれています。
佐野さんは、このやりとりを通して、
確信に満ちた人(沢野さんのことを差しているわけですが)とは
言葉だけではわかり合えないことがわかったということを言っています。
「確信に満ちている人は、確信しているもの以外のことを吟味したり、
迷ったりすると困るらしいのである」
「確信に満ちている人には、とんでもないものが飛び出してくることがない。
とんでもないものを飛び出させないようにするのが、確信への道である」、と。
同じエッセイの中で、佐野さんは
「私は、野生の中にある知性が、本当の知性だと思う。
そしてそれは、人間が生き物であれば、だれでも持っているものだと思う」
とも言っています。つまり、佐野さんは、
「確信に満ちている人は、言葉だけでわかりあえると思っている。
でも、実際は言葉だけではわかりあえることはない。
なぜなら、確信に満ちている人は、自分の言葉のみを伝えていて、
相手の言葉をわかろうともしていない。
もちろん言葉の背後にあるものを読み取ろうなんて思ってもいない。
言葉の背後にあるものを読み取ったりすることが、
人間という生き物らしい、本当の知性であるのに」
と言っているのです。
私は、これを読んで、その通りだな、と思いました。
言葉だけで理解し合う。それは可能かもしれません。
でも、それはロボットでもできる。
生き物として、人間として、その言葉の裏にある喜びや悲しみ、
苦しみを理解しながら、コミュニケーションする。
それが、佐野さんの言うところの、
人間という生き物らしいやりとりであって、
野生の中にある知性だなあ、と思ったのです。
ビジネスでは、論理的であること=スマート、と捉えるようなところがあって、
言葉に詰まったり、はっきりと物を言わなかったり、
回りくどい人は、スマートではないと
くくってしまう傾向があるように思います。
「え? 何が言いたいの? 意味がわからない」
などと相手に言う時は、自分がとてもスマートになったように思えるし、
「できる人」に見えているように思えますが、
実はそうでもないんですね。
そうではなく、相手が本当は何を言いたいのか、
どんな感情でそういう言い方になってしまっているのか、
そんなことを考えてから、その人の言わんとしている事を論理的に整理する。
「こういうことを言いたいのかな? こういうふうに思ったんだよね。
だから、こう言っていると理解していいかな?」
そんなやりとりが、本当に知性あるやりとりなんだろうなあ、と思いました。
生き物らしい、人間らしい知性があってこそ、
「あの人って魅力的だよね」、「あの人と仕事したい」
と言われる人になるんだろうなあ、と。
言葉だけでわからせようとしない、
言葉だけでわかろうとしない、野生の中にある知性。
これ、本当に大事にしなくちゃいけないなと思いました。