「わかる」って大変だ
子どもの頃、私にピアノを
教えてくださっていた先生が
ある日、母にこんなことを言ったそうです。
「ちゃんと弾けてるんだけど、
いつもすごく難しい顔をしているの。
弾けてるよと言っても、
しかめっつらで楽譜を見ているの」
小学校の中学年くらいのことだと思いますが、
何やらさっぱり覚えていません。
さぞかし難しい曲を弾いていたんだろうなと
思われるかもしれませんが、
ごくごく普通の練習曲しか弾いていません。
イメージ通りに弾けないとか、
そんなレベルでもありませんでした。
もしかしたら、「この曲、好きじゃない」とか
そういうことだったのかもしれませんが、
たぶん、何かがすっきりしていなかったんでしょう(笑)。
今、私は自分が「モヤモヤ嫌い」だと自覚しており、
「モヤモヤ」を感じると、全力で解消に向かうわけですが、 その頃から、すっきりしない状態に敏感だったのかもしれません。
でも、何にすっきりしないのか、
を見つけるところまで当時は行けなかったようです。
そう考えると「すっきりする」「わかる」ということは
大変なことだなあと思います。
まず、すっきりしていないことを自覚する。
次に、なぜ、すっきりしていないのか
原因を探り、問題を見つける。
調べたり、人に聞いたりして、問題解決する。
自分の中で感覚的にわかるようになるまで試行錯誤。
ようやく「わかる」
みたいなことなのかなと思います。
もっと知りたくなったので、
『「わかる」とはどういうことか
−認識の脳科学』という本を読んでみました。
著者の山鳥重氏は、神経内科の医師で
高次機能障害学を主として研究しています。
山鳥氏によると、「わかる」には種類があって、
以下のどれか、もしくは組み合わせで
「わかる」にたどり着いているといいます。
<全体像がわかる>
ものごとを遠い距離から眺め、
ほかの問題とのかかわりがどうなっているかを知ることで、 それまで見えていなかったことが見え、「わかる」
<整理するとわかる>
ある基準に沿ってものごとを分類することで、
今まで整理がつかなかったものが、ある見方で整理され
「わかる」
<筋が通るとわかる>
それだけではわからない現象が因果関係によって
説明されたときや、仮説によってものごとの説明がついたとき 「わかる」
<空間関係がわかる>
さまざまなものの位置関係が「わかる」、
頭の中で三次元のもののイメージが「わかる」、
一枚の紙に描かれた立方体が立方体だと「わかる」
(視空間的能力)
<仕組みがわかる>
見かけの理解だけでなく、見かけをつくり出している
からくりを理解することで、ものごとの本質が「わかる」
<規則に合えば、わかる>
すでにある決まりごと(ルールや公式)の
手順に当てはめて、ものごとを整理していくことで、
複雑なことが「わかる」
どうでしょうか。
例を説明されないと、なるほどー、とはなりませんが、
わかるということが簡単ではないということは
わかります(本当?)。
山鳥氏は、
「わかるの第一歩は言語」と言っています。
ある音韻パターンと一定の記憶心像が結びついていれば、 その音韻パターンを受け取ったとき、
心にその記憶心像が喚起されるのだそうです。
たとえば、だれかと話していて、
言葉が耳から入ってくると、
その言葉と自分の記憶心像(内容イメージ)が結びつく、
そうして「わかる」に至る、ということです。
なので、毎回、言葉に触れたときに、
「記憶心像(イメージ)」を形作っておかないと
いけないと山鳥氏は言います。
「記憶心像(イメージ)」を形作るには、
意味がわからないといけない。
意味がわからないままにしておくと、
言葉は単なる記号音のまま。
記号音のままスルーすることが続くと、
頭がそれに慣れてきて、聞き慣れない言葉を聞いても
「それ、何?」と問いかけなくなるそうなのです。
つまり、一つひとつの言葉を丁寧に扱い、
意味を正確に理解し、自分の中にイメージを
形成することを怠ると、
「もやもやする」「すっきりしない」「よくわからない」 ということにも気づかなくなるということ。
「わからない」ことがわからないわけですから、
「わかる」に向かっていけないということになります。
これは耳からだけでなく、目から言葉が入ったときも
同じだと解釈しました。
意味を正確に理解して、心像を形成しておかないと、
文字はただの形のままスルーされるということですよね。
いやあ、大変です、これは。
カタカナ言葉を中心に、日々新しい言葉に触れている私たち。 言葉の扱いを疎かにしてはいけない。改めてそう感じます。