「ポジティブ VS ネガティブ」論
車のラジオを聴いていたら、ゲストにアンミカさんが出てきて、
彼女監修の「ポジティブ手帳2025」
ああ、もう手帳が話題の季節なんだな...
その手帳には、週次でポジティブワードが紹介されていたり、
心と体を元気にするハウツーが書いてあったりするらしいです。
手帳の内容自体は真っ当で良いものに思えました。
でも、一抹の違和感があって、何だろう?と考えてみたので、
シェアさせてください。
まず、ネーミング。「ポジティブ手帳」...。
Positiveは、積極的、前向き、
ポジティブな姿勢、ポジティブな考え方、
どう転んだって、良いことに違いありません。
しかし、私には、若干「煽り」
多分「ポジティブ」
社会では鬱などに悩まされている人が増え、
経済環境も良いとはいえないので生きにくい時代です。
夏目漱石ではありませんが、
だからこそ、この「ポジティブ」
そう、先導であって、扇動ではないのかもしれませんね。
でも、本当に心が豊かで健康的な状態というのは、
ポジティブであろうと努力することではないと思います。
たとえば、ネガティブ・ケイパビリティという言葉があります。
どうにも答えの出ない、どっちつかずの状況にあっても、
その不安定な状態、懐疑的な気持ちや違和感を抱えた状態に
留まって耐える力を意味します。
決してポジティブであろうと努力するのとは違います。
それは、
なので、ネガティブ感情から抜け出したいがために、
ポジティブであろうとすることは、
自分にとっては偽りの状態なので、健康的ではないと思うのです。
ネガティブな自分に気づいたら、それも素直に受け入れて留まる。
一番良くないのは、
というわでけ、ポジティブであろうなどと意識せずに、
普通に暮らしていて満ち足りているのが一番なのではないか、
その状態に呼び名はないのだろうか?...と思って調べてみたら、
「中庸」(ちゅうよう)と呼ぶらしいです。
この概念はギリシャ哲学や
中国の自然哲学「陰陽道」(おんみょうどう)から生まれ、
日本文化は後者から影響を受けています。
NHK大河ドラマ「光る君へ」に、ユースケ・
陰陽師・安倍晴明公が登場していました。
彼が礎にしていた思想が陰陽道です。
いったい「陰陽道」とは何でしょうか?
天地の間には、互いに対立し依存し合いながら、
万物を形成している陰・陽の2種類の気があるとされています。
積極的なものを陽、消極的なものを陰と呼びますが、
陰と陽には、善悪も優劣もありません。
「中庸」というのは、陰にも陽にも偏りすぎず、
何事においても過不足がなく、
勝手な解釈ですが、そうであるなら、
ちょっとしたポジティブは中庸にとって普通のこと。
そんな中庸の状態が私は健康的だと思います。
努力しなくても、
あ、でもポジティブ手帳を買うことで、
良い1年を送れそうな気がするならそれもアリですよね。
自分をコントロールできるのは自分だけですから。
いよいよ11月に入ってしまいました。
中庸な1カ月にしたいものですね(笑
「自分を生かせる」って?
当社は、現在、採用活動を行っています。
私は、採用/求職活動の本質は「その人を/自分を生かせるか」
企業と求職者の双方が見極めることだと思っています。
では、仕事で「自分を生かせる」
まず、「自分を生かせるか?」
「自分に合っているか?」というものがあります。
合っていれば、生かせる確率は高いですよね?
では、いったい何が「合っている」必要があるのでしょうか?
やりたいことか? 適性か? 価値観か?
他にもいろいろあると思いますし、どれも重要なのですが、
上の3つで言えば、価値観、適性、
なぜ、「価値観」が第一なのかといえば、
価値観というのは「自分らしくいられるか」の尺度だからです。
つまり、人の幸福と密接に繋がっています。
価値観には正しいも正しくないもありません。
自分はずーっとこれこれを大切だと思ってきた、
それと違うことをするのは抵抗がある、という類のことです。
たとえば、
「入社したての君が意見を言うのは十年早い」
という価値観の会社に入ってしまったら、これは不幸ですよね。
反対もまた然りで、
明快な意見などないし、
「年齢社歴に関係なく、当社社員なら意見を持っていてください」
という価値観の会社にいたら、これも苦痛に違いありません。
価値観が合わない会社に勤めるということは、
自分らしくないことを求められるということです。
でも、いざ自分の価値観を言語化しようと思っても、
実際にやってみると結構難しいです。
自分の価値観を知る上で、手っ取り早い方法は、
不快なこと、嫌いなこと、カッコ悪いと思うことを洗い出すこと。
自分と、人や仕事とのマッチングを考えるときに有効ですよ。
「合っている」において、その次に重要なのが「適性」です。
価値観が合っていたとしても、適性がないと、
とてつもない努力をしないといけなくなる。
苦手なことをがんばるよりも、
得意なことなら努力とも思わずにやり抜くことができます。
「自分に合っている」ためには「やりたいことかどうか」も、
もちろん重要ですが、これは案外「思い込み」
どういうことかといえば、やったことがないことを「やりたい」
やってみたら、
反対に、やりたいと思っていなかったことでも、
やりたいことに変化する場合もあります。
だから、やりたいことかどうかというのは、
さて、自分に「合っている」の話をしてきましたが、本題は「
端的に言うのは難しいですねぇ。
ここでは、「合っている」が満たせた上で、
自分の実力より少し上で、工夫の余地のある環境で働くこと、
と定義してみました。
どんなに周囲から喜ばれたとしても、
自分を生かしているとは感じにくい気がするからです。
「少し難しい」けれど、でも「できる」という仕事において、
自分なりの工夫の余地がある。
そんな環境で働くと、人は意味を感じるのではないでしょうか。
あなたは、どう思いますか?
自分を生かせているか?
より良い人生を送るために、時々考えたい問いです。
今年もあと3カ月。2024年の第3コーナーですね。
最後まで元気に走り切りましょう!
戦略家がやっているらしい「予測」の話
地震や台風などの天災、パンデミック、急にやってきた米不足...。
経済や国際情勢を含め、
予測しようもないからこそ、今日は「予測」
というのは、先週の木曜日、
左手を添えないと歯磨きさえできません。
そこから1週間、自分の行動を観察したり、
結局ここには「予測」
ご心配をお掛けしても申し訳ないので結論からお伝えすると、
当初はどうなるかと思った手首の症状も日に日に良くなり、
あと二、三日もすれば、元通りになっていると「予測」します!(
この間に私が取った行動は、木金土日は様子を見て、
月曜日に地元の脳神経外科へ行きました。
脳には異常はないが頚椎の可能性があるからと言われ、
大きな病院への紹介状をもらって翌日火曜日に整形外科に行きまし
結局、寝ている間に神経が圧迫されて起きたもので、
心配はないだろうという診断を得たので、
ゴルフも、筋トレも、ドラムもやるぞ~!
今回に限らず、発熱など緊急な場合を除き、
体調が悪くなったら、概ね1週間ぐらいで医療機関を訪ねます。
その理由は、宙ぶらりんだと予定が立たずに困ること、
最悪の状況ではないということの確証を得たいこと、でしょうか。
今回も楽観していましたが、楽観に基づいて行動すると
人に迷惑がかかる場合がある、というのもありました。
多分こういうことが、私の「予測に対する価値観」なんですね。
自分の体調に関しては1週間ですが、
仕事への対処はどんなに遅くても24時間の意識でいます。
何事も「最悪の状況」を想定して行動したくなるのは、
経営者特有のサガかもしれません。
あれは30代の半ば、
「最悪の事態を想定しろ。
希望的観測を捨て、しかし希望を忘れるな」
確かに...と思ったことを今でも覚えています。
最悪の事態を想定することの良さは、
「別に死ぬわけじゃないな」
しかし、人の予測行動は十人十色。さまざまな性分の人がいます。
体調を例にすると、、、
健康管理に気をつけて、日々対策している人もいます。
そういう人の持ち物を聞くととても面白いです。
また、具合が悪くなっても、
がんの手術などの大事に至っても、
セカンドオピニオンをもらう人もいれば、もらわない人もいます。
理由も、もちろんさまざま。
ある人は楽観的だからで、ある人は面倒だからであったり。
仕事でも同じように行動は分かれますよね。
人のことはともかく、私は「最悪の事態想定派」です。
悪い方から可能性を潰して、現実的な対応を考えたいタイプです。
ところで、OODA Loop(ウーダ・ループ)
私自身はこの原稿を書こうと思って、「予測」
今回初めて知りました。これが何かというと...
OODAループとは、アメリカの軍事戦略家であるジョン・
先の読めない状況で成果を出すための意思決定方法です。
現在では、
ボイドは、空中戦での決定的な勝因は、
意思決定プロセスを分かりやすく理論化しました。
Observe:観察する
↓
Orient: 状況を判断する
↓
Decide:意思決定する
↓
Act:行動する
PDCAが計画に対する業務改善モデルであるのに対し、
OODAは、迅速な意思決定を行うためのモデルで、
両者はしばしば比較されます。
なるほど。。。。
「なるほど」とは思いますが、私は2つのOの間で行う、
「Imagine」(想像する)が実は最も重要なのではないか、
予測の本質とはImagineなのではないか、と考えています。
想像する。
相手のことを。
相手の周りにいる人のことを。
自分の行動の後に生まれる状況のことを。
今、何もしなかった場合のことを。
3日後のことを。
1カ月後、1年後、10年後のことを。
その後に状況判断ですよね!
OIODA(オイオダ)です笑 戦闘では使えないけど。
今週、当社のニュースをお知らせをします。
楽しみにお待ちください! ではまた
前頭葉、若々しく保っていますか?
一昨日、私が兄と慕っている(でもだいぶ年下の)
なんと「一見さんはお断り」、かつ「1年待ち」で知られる
村上開新堂のクッキーを届けてくださるためにです!
村上開新堂は、
明治7年創業の洋菓子専門店です。
箱を開けるのに、動画を撮ったくらい、味もさることながら、
そのレアさを堪能しました。
このXさん、とってもエネルギッシュな方です。
上場企業の役員でありながら、グループ企業の社長も務める。
詳しいことは知りませんが、ベンチャーにも関わっているし、
いったいいつ休んでいるのだろうと思うぐらい
ある一面から見ると仕事大好き人間です。
しかし、仕事一辺倒でないから、なおさらスゴイ。
今週は京都に遊びに行くと言っていたし、
ベイスターズの応援にわざわざ北海道まで行ったりも。
AIの話や株式投資の話など、
話は尽きませんでした。
60代にはまだ手が届いていないとはいえ、
年齢的には決してヤングなわけではないのに、
なぜこの人はこんなにも若々しいのだろう?
(実際、オシャレな方でもある)
と、考えてみました。
その理由はいくつかあるのでしょうが、
まずは、まったく守りに入っていないこと、
加えて好奇心が旺盛で、
こう考えて見ると、「若さ」というのは
一概に年齢と比例するわけではないと痛感します。
年齢的には若くても、守りに入っていて、
行動する熱量が低い人は大勢います。
Xさんが来社された前日、当社のある人と、
実は「若さは前頭葉による」という話をしていました。
というのは、彼女は脳科学者・中野信子さんの本を読んでいて、
前頭葉が大切だと再認識したそうです。
タイトルは聞いたのですが、忘れてしまいました。
多分この本だと思われる本を本の要約サービス「flier」
確かに最終章辺りに前頭葉が若さにどう関わっているか、
どうしたら脳が老けないのかが書かれていました。
前頭前野は思考、やる気や感情、性格、
分析的思考や客観的思考を行っている場所とも言え、
前頭前野がうまく働いていれば、固定観念を持たず、
自分を客観視できるのだそうです。
しかし、一般的には加齢によって前頭前野の働きは衰えます。
「老けない脳」をつくるには、
・慣れていることをやめて新しい体験をする
・あえて不安定・過酷な環境に身を置く
・安易なカテゴライズ、レッテル貼りに逃げない
・余裕を大切にする
...といったことが大切ならしいです。
でもね、この話は
筋肉が衰えてきたから、階段を登らない
階段を登らないから、筋肉が衰える
というのと、ロジック的には同じで、
鶏と卵の関係にありますね。
それでも、慣れていることばかりに安住していると、
前頭葉が衰える(=若さを失う)とわかっていれば、
自分の行動パターンに意識も向くから予防にはなるのかもしれませ
おや、待ってください。
自分の行動パターンを意識できるというのは、
メタ認知が働くということですから、
前頭葉が衰えると、それもできなくなるんですよね。
私自身は野生的直感から笑、
運動によるメタ認知の向上や言葉への感度の開発が、
若さに関係しているような気がしています。
さて、明日はお休みをいただいて軽井沢に行ってきます。
涼しいといいなー
皆さんもどうぞ良い週末を!
パリ五輪開幕~運?勘?自分に負けないって?
パリ・パラオリンピックが始まりました。
日本選手の皆さんにはがんばってほしいですね! 応援しています!
ところで、
「真剣に」と言われると少しひるみますが、私は一応あります。
体格は小柄ですが、若い頃はスポーツウーマンでした。
中学生の時は、陸上部に所属。しかし、全くの「才能なし」。
(まあ、
その後、チームスポーツがやりたくてハンドボールをやりました。
進学校でしたが、
スポーツをやって良かった理由の1つは、
「勝ち」と「負け」。
勝負の相手は、対戦する誰かである前に、大抵は自分です。
私がスポーツを通じて学んだことは、たくさんあるのですが、
その中でも絞り込んで3つ言えと言われたら、
1・全員が自分の持ち場に「責任」
2・自分を信じる「メンタル」があってこそ勝てること
3・「頭脳的ながんばり方」をしても、闇雲にやっても負けること
まず「責任」について。
陸上競技は個人競技なので、
でも、チームスポーツであるハンドボールでは、
入部して初めて三角パスという練習をしたときの記憶です。
キャッチを何度もしくじって、先輩たちから「キャッチ!」
「ちゃんとキャッチせよ」という意味です。
チームワークというと、仲良くやっているイメージもありますが、
実はそうではなく、
次に「メンタル」について。
いやー これ、説明は要りますまい。
できるかな? 勝てるかな?
入らなかったらどうしようと思って打ったシュートは絶対に入らな
シュートは「入れてやる!」と思って打たなければならない。
そのメンタルを養わないと、どんなに練習しても、
最後に「頭脳的ながんばり方」について。
とかく多くのスポーツは肉体的要素や練習量が勝ち負けに影響しそ
でも、それだけが勝負の要因なのかというと、
相撲でも、平成で言えば舞の海、
肉体的にも練習量でもハンデがあるとき、
「頭を使って勝て」
私が学んだ3つ以外にも、勝負で重要なことはあります。
たとえば、「運」と「勘」。
どちらも、とても非科学的な印象がありますが、
私は、ビジネスでもこの2要素はとても重要だと考えています。
そして、「運」も「勘」も、心の「鍛練」
「鍛練」というのは、しっかり練習し、自らを鍛えること。
「鍛練」なくして、「運」も「勘」も手に入らないであろう...
という人生観です。
こういうと昭和っぽいですが、「スターウォーズ」
少しは自然思想な感じや、禅的なものが伝わるでしょうか?
実際、「スターウォーズ」は仏教的な教訓で溢れています。
仏教では徳を積むことが、
私は、「徳」と「運」「勘」は無関係ではないと思っています。
利己的ではなく、他人のことを思う人には勘が開かれるし、
運も与えられるのではないかなー、と。
さて、話を勝負事に戻すと、先日、
こんなことを言われました。
「勝負事や賭け事は好きなぐらいでちょうどいい。所詮、
話の発端は、
どんなゲームがいいか、聞いていたときでした。
というのは、父は本来、囲碁が好きなのですが、
私自身の時間的負担を減らした上で、
「対戦ゲームはどう?」と聞いたら、
「勝ち負けは、もうどうでも良いから、そんなに興味はない」と。
でも、その後に言ったのが、上に紹介した台詞だったのです。
父いわく、「人生は『勝負事』
自分の思うような結果を得るということ。
勝負事が好きな人は、思い通りに行かない時には悔しいと思い、
自分のどこに問題があったのか、
勝負事が好きなら、それは苦にならない。
でも、勝負事が嫌いな人は負けは苦だし、
他人のせいにしている人は、負け癖がつく」。
ちょっと意訳ですが、そういう意味でした。
100%同意ではないけど、
...というところ、私もその血を受け継いでいるなと思いました。
「運」も「勘」も「勝負事」も
結局はどれだけ心を鍛え、
パリ五輪に出場する選手の皆さんも、
そして、もちろん選手を応援しながら日常に励む私たちも、
自分に負けないように心を整えたいものですね。
はぁ~ でも暑さには負けそうになる...。
今週はもう8月です。
お互いに暑さにめげず、がんばりましょう!
「させていただく」の根っこにあるのは?
東京都知事選が終わりました。
感想はいろいろありますが、
今回は、過去最多の立候補者数だったこともあり、
出馬会見や政見放送、街頭演説動画など、
知事を目指す人たちの声を聞く機会がたくさんありました。
それらを通じて、
「立候補させていただく」に代表されるように、
「させていただく」という謙譲表現です。
もちろん尊敬語、謙譲語は難しいし、
私自身も含めて誰でも多少おかしな言葉を使っているので、
完璧であらねばならぬ...などと思ってはいません。
なのですが、「させていただく」という謙譲表現、
政治家の皆さんがやたらに多用するという印象、ありませんか?
そして、
では、なぜ「立候補させていただく」
早速、Google先生に「させていただく 謙譲語」で尋ねてみたところ、
マイナビさんのコンテンツから次のような説明がトップに上がって
ーー以下引用ーー
「させていただく」は「させてもらう」の謙譲語であり、
「相手からの許可」「恩恵を受ける」という意味が含まれます。
相手の許可を得ていない、得る必要がない、
使用しません。
ーーーーーーーー
なるほどと合点がいきました。
立候補は自分の意思で決めることであり、
「立候補させていただく」に違和感を感じたのだと思います。
では、「させていただく」の正しい使い方例には
どのようなものがあるのでしょうか?
以下の5例は、許可と恩恵という観点から正しいと言えそうです。
「〇日の〇時に訪問させていただきます」
「日程の変更をさせていただきます」
「この忘れ物は1カ月後に処分させていただきます」
「(イベント会場で)荷物の中身を点検させていただきます」
「ご提供いただいた写真を使わせていただきます」
しかし、実際に世の中では許可と恩恵とは無関係に
「させていただきます」が使われています。たとえば...
「資料は当日、配布させていただきます」
「(パートナー企業に)明日はお休みさせていただきます」
「報告書は予定通り明日提出させていただきます」
「写真を添付させていただきます」
「私が担当させていただきます」
いやー 使っていますよね。
これは多分、許可・恩恵以外に、意思表示を丁寧に伝える場合に、
「します」→「させてもらいます」→「させていただきます」
になっているのでしょうね。
だとしたら、言葉は生き物だし、
それはそれで別にいいんじゃないのという気にもなってきます(笑
話を戻して、政治家のスピーチの違和感の本質。
許可・恩恵でないことで使われているという以外に、
実はもう一つあって、それは「多用されすぎ」
多用されるがあまり、大臣が「指示させていただいた」
「お示しさせていただきます」と言ったりするのも、
「させていただきます」を多用している人にとっては、
「丁寧に、謙虚に...」という気持ちからなのかもしれませんが、
少し皮肉な見方をすると(すみません、天邪鬼で)、
「丁寧な言葉を使っておく方が、突っ込まれないだろう」とか、
「へりくだっておけば、人は信用してくれるだろう」などと
思っているようにも見えます。
何となく受ける印象として、言葉は上辺だけのもので、
実際には尊大であったり不誠実なのではないか?とか
防衛的な面が現れているだけなのではないか?
「検討させていただく」がその典型ですよね。
そう言ったなら、
「させていただく」という表現を、
「させていただく症候群」というのだそうです。
夏休みシーズンを迎えます。
「お休みさせていただく」ではなく、
「休みます」と言うのが普通なことになってほしいですね。
常識という「刷り込み」のコワさ
ヤフー知恵袋にこんな書き込みがあるのを見つけました。
ーーー
皆さんが常識を疑うことって、どんなことですか?
夏休みの宿題で「常識を疑う」
このお題が私には難しすぎて全然わかりません。
だから普段、
ぜひ、協力お願いします!!
ーーー
「夏休み」と書かれているので、
これを読んで、最初は、「常識を疑う」
愕然としたものの、よくよく考えてみると、
むしろその感覚の方が健全なのかもしれないなと思い直しました。
というのは、「常識を疑う」
たとえば今週、私の中で1つの常識が覆されました。
何だと思いますか?
実は、私、日本という国は「極東アジアの小さな国」
国土面積が小さい国という意味です。ところが...
日本は意外にも大きかったのです。
知ったきっかけは、「The True Size.com」というサイトを訪れたことでした。
これは、
実際の面積を体感できるサイトです。
たとえば、「Japan」で検索してみてください。
日本がアクティブになり、
日本の国土サイズが感覚的にわかります。
私が最初に驚いたのは、
日本がイギリスやイタリアよりだいぶ大きいのはもちろん、
ドイツよりも大きそうだったこと。
えー!びっくり!という感じでした。
で、さらに調べてみると...
日本の国土面積は377,945,210平方kmです。
東南アジアの中では、
中国 9,600,000
インドネシア 1,910,931
タイ 513,140
に次いで第4位。(単位はいずれも平方kmです)
それどころか、ヨーロッパのこれらの国々よりも大きい。
イギリス 242,495
イタリア 302,068
ノルウェー 323,772
ドイツ 357,581
フィンランド 336,884
ヨーロッパの国は国土面積が狭い国が多いんですね。
では、なぜ私は(もしかしたら、皆さんも)
日本はちっぽけな国だと思い込んでいたのでしょうか?
ここからは推測です。理由は2つあります。
その1。
この地図の特徴は高緯度に向かうにつれ距離や面積が拡大されるこ
日本は、赤道直下ではないにしろ、中緯度にあるので、
地図上の形は実際よりも小さく表示されます。
それが「ちっぽけ日本」
その2。考えられるもう一つの原因は、「日本は小さい島国」
幕末に国内で定着したこと。
どこからどうして定着したのかはわかりませんが、
黒船到来で軍事力のギャップをまざまざと認識させられ、
以来、自国を卑下する意味もあり、
つまり黒船あたりから、「日本は小さい島国」
そのような言語的表現は定着し、
そして、もっともアタマにくることは、(←これ、自分にです)
「日本は小さい島国」という気持ちで生きていなければ、
もっと気持ちも大きくなったような気がすること!
今回、改めて常識は疑わないと、見えてくるものも、
来週は6月も最終週。今年も半分が終わってしまいますね。
暑さに負けずに元気に過ごしましょう!
脱「ついて型」のススメ
例えば、「~について取り上げよう」
あるいは、会議のアジェンダに書かれた「~について」の項目。
日常業務のいろいろなところで、
「~について」という言葉を使って会話がされています。
会議もコンテンツの一種であると考えた場合、
コンテンツの質はコンテンツを作る人のイニシアチブにかかってき
多くの物事で「~について」
本当にそれでいいのかな?とも思います。
というのは、1つの仮説として、この「ついて型」アプローチが、
アウトプットの質や生産性、
そこで、今日は、私が「ついて型」
その「ついて型」にはどんな問題があるのか、
問題があるなら、どうしたらいいのか、考えてみたいと思います。
実際、「~について取り上げよう」
コンテンツは作れますし、会議のアジェンダに「~について」
それなりに会議は成立してしまうものです。
それらのコンテンツでは何かしら言葉的なものが成果物になるので
「はい、これが本日のアウトプットです」
でも、
会議の成果に対し、参加者の納得感はあるでしょうか?
もう一度、たとえば「企画会議」。
当社が提供している企画力養成講座では、
ついて型でもコンテンツは作れるが、
とお伝えしています。
ーーーーーーーーー
~について取り上げよう
↓
だとしたら、誰に出てもらおうかな?
↓
どんなことを聞こうかな?
↓
聞いた話をうまく原稿にまとめなきゃ...
ーーーーーーーーー
確かに、この流れでもコンテンツらしきものは完成しますよね。
ですが、このアプローチはただ「聞いた話をまとめる」
「~について取り上げよう」から始まる企画プロセスでは、
大抵の場合、何をメッセージとするのか、とか、
読み終わった時に、
なので「~について取り上げよう」
「伝えたいこと→伝わること」に執着するなら、
気をつけないといけないなと思います。
会議のあり方もそうです。
日常的に行われる会議こそ、質や生産性、
でも、もしその会議のリーダーがアジェンダを考えるときに、
「1.○○について 2.○○について」というような感じで出していたとします。
そうしたら、
誰にもわかりませんよね。
もちろん、アジェンダと会議設計は別物ですから、
場のリーダーの頭の中に会議設計があるなら、
アジェンダ自体は「1.○○について 2.○○について」で済む場合もあります。
でも、私が一番おすすめしたいことは何かというと、
疑問文でアジェンダを組み立てることです。
(これは企画を立てる時もほぼ同じです)
ところが、
つまり、何を議論する必要があるのか、
場の作り手が「問い」
ですが、慣れていないと、
え? ほんと?と思うかもしれませんが、
考える必要のあることを漏れなく「問い」の形で出せる人は
実はそれほど多くないと思います。
私自身も「問いを立てる」を意識していますが、「漏れなく」
はなはだ心許ないです。
なので、「疑問文として書いてみる」
さて、今年もあっというまに6月。
終われば2024年も半分過ぎてしまいます。トホホ...
と、一瞬背中が丸まってしまいましたが、
その前に、今週を乗り切らないとですね!
「善」という縛り
昨日、届いたコンサル向けメルマガで「謙虚という罠」という
タイトルを目にしました。
謙虚さというのは、心の中の問題ではなく、
態度の問題だというのがその内容でしたが、
内容よりもタイトルにインスパイアされて、
私も含め、多くの人は「謙虚」は美徳だと思っています。
今の自分に奢ることなく、控えめでいる、素直に学ぼうとする、
偉そうに振る舞わない...。
美徳であり、善であることに間違いありません。
でも、「謙虚という罠」という文字を読んで、
どんな罠があるのか考えてみました。
謙虚は善だという価値観を持っていると、
聞かれてもいないのに、
誉められても、「いえいえ、滅相もない」と応えたくなる、
自分が悪いわけではなくても、謝ってしまう...。
こんなことが起きたなら、それは確かに「謙虚という罠だな」
そして、そう考えてみると、一般に美徳であったり、
捉われすぎて歪んでくると、善ではなくなりますね。たとえば...
「協調性」が度を越すと → 主体性がなくなる
「真面目」が度を越すと → 融通がきかなくなる
「責任感」が度を越すと → ルール偏重になる 等
ちなみに、今年9月に映画化される辻村深月による恋愛小説『
私自身は読んでいませんが、代官山蔦屋書店コンシェルジュである
間室道子さんはブログで「傲慢と善良は表裏一体」だとして、
主人公の真美について次のように書いています。
ーーー
なぜなら、どちらも根底にあるのは「未熟」と「無知」だからだ。
たとえば厳格な母親にひたすら「いい子」に育てられた真実は
新卒採用の面接で「この会社は第一志望ではありません」と答えた。
嘘がつけない彼女は善良。
しかしこんなことを言われた相手はどう思うかまったく想像しないのは傲慢。
就職試験でこうなのだから、真実のさまざまはうまくいかない。
ーーー
善 VS 悪
もちろん善であるべきなのはその通りなのですが、
人は自分が絶対視していることに対し、
「協調性」が「善」という考え方も、
その結果、会議では(たとえ疑問があっても)
これが、災害時などに作用して、判断を間違えると、
大変なことになったりする場合もありますから、
人が善だと思っていることは、その人にとっては「その人らしさ」
自分らしいことを選んでいる方が、誰にとっても心地よい。
けれど、
もしかしたら「自分らしくない」と思い込んでいることの方へ、
気持ちをストレッチしてみるのもいいかもしれません。
「コツ」を身につける「コツ」って?
私事で恐縮ですが、ここ最近、
なかなかコツが習得できません。いえ、
進捗感や成長実感は仕事でも大切ですよね。
今回、真剣に考えてみたら、原因らしきものが浮かんできました。
そこで、今日のテーマはコツを身につけるコツはあるのか?です。
●コツというのは「やり方」か?
今さらですが、コツ(骨)の辞書的意味は「 物事をうまく処理する要領」のこと。
骨は、体の中心で体を支えていることから、物事の本質を見抜き、
技能として体得することを「コツをつかむ」
さて、コツと聞いて、ぱっと浮かんでくるのは「やり方」
似た言葉に「ノウハウ」がありますが、その違いは何でしょう?
私独自の整理だと、コツは体得を前提にした暗黙知ですが、
ノウハウは、やり方に関する暗黙知を体系的に整理した形式知。
なので、ノウハウを知っているからといって、
共通認識に立つために、ここでの暗黙知とは?を書いておきます。
暗黙知:言葉で説明するのが難しい経験的な知識(
経験知と身体知の両方を含む概念。
ということは、コツを掴むには、
①知識(考え方や理論など)を知っていること
②経験・体験が不可欠で、体で覚え、感じること
③上の2項目の間を行き来しながら、
...が、重要だということになります。
考えてみれば、当然ですよね。
でも「先生についてやり方を教えてもらえばコツは身に付くもの」
といった感覚で取り組んできた今の私は、
●実践の「量」か「質」か?
経験知・身体知を高めるために、
仕事では業務経験を重ねることが重要になるわけですが、
では、その経験の「量」と「質」なら、
両論あるようですが、ここではまず
「質が変化するまで量をこなすことが重要」
こんな書籍があります。
『アーティストのためのハンドブック~
(デイヴィッド・ベイルズ、テッド・オーランド著)
その中で陶芸の授業における実験的なエピソードが語られています教室の左半分の学生は作品の「量」によって、
量のグループは、制作した作品の総重量で評価され、
質のグループは、自分で最高だと思う作品を一つ提出し、
最後に全体を「質」で比較すると、「質」
どれも「量」によって評価されるグループによるものでした。
なぜ、こうした結果になったのでしょう?
量のグループは、試行錯誤を重ねながら作品を作ったことで、
粘土の扱いもうまくなっていきましたが、
質のグループの方は、完璧な作品を作ろうとするあまり、
考えることに時間をかけすぎてしまったからのようです。
経験知と身体知は、実践しないことには身につかないわけですね。
●実践における「質」で大切なことは?
コツを掴むには実践の「量」が大切だとはいえ、実践の「質」
ジョンズ・ホプキンズ大学の研究に関する記事(Jeff Haden/「Inc.」)によると、
同じことを反復練習するよりも、
トレーニングを繰り返す方が習得が早いと分かったそうです。
例えば、新しいプレゼンテーションをマスターしたいなら、
最初の数回は全体を同じ方法で練習し、
あるセクションに集中したり、プロジェクターを変えたり...
そして、結果を評価し、機能しないものを破棄し、
機能するものに改良を加えるということを繰り返します。
注意点は、条件を変えすぎてはいけないということ。
この方法で習得が早くなる原因の詳細は書かれていませんでしたが
既存記憶が蘇りやすい上、
2つの記憶が再統合され、定着しやすいということのようです。
つまり、反復練習では練習方法の「質」(工夫)
●オノがトレーニングでコツが掴めなかったワケ
私がコツを習得できなかった原因は、こんなことだと思います。
・(コツ=やり方という思い込みから)
・(結果から検証していただけで)
・圧倒的に量が足りない
・教われば何とかなるという他力本願(笑 ←多分1番の原因はこれ!
新しいことが始まる機会の多い4月です。
コツを身につける際の参考になれば幸いです。
よい週末をお過ごしください!