もしかして、ブランディング活動って宗教チック?
最近、感じたことがあります。結論から書きますね。それは、ブランディングの本質というのは、もしかしたら『宗教チック』なことなのかもしれない、ということです。ふと、そんなことを考えました。と、同時に、ほんとうに宗教チックなものなの?という疑問が湧いてきました。まずは、宗教チックなものなのかもしれないという方向性で思ったことから書きます。
確かに、マーケティングという枠組みの中で、理性的かつ論理的に考えて、自社の強みや他社との違いをコミュニケーション課題に落としていく。これも、ブランディング活動であることは間違いありません。
でも、それ以前に、理念を行動で示していく。これも、また立派なブランディング活動です。電話での対応、挨拶の仕方、メールの書き方、等々、社会との接点において、どう行動するかは、ブランディング活動においてとても重要です。
ところが、理念に基づいてすべからく行動するというのは、とってもシビアなことです。はっきり言って、苦しいです。人間は、神や仏のように完璧な存在ではないのですから。理想を追求する気持ちはあっても、時として行動が伴わないことだってある。これが、現実だと思います。
こんなことを、いつ、なぜ感じたかというと、採用活動を行っていて、感じました。採用活動は、採用活動であって、一般的には、ブランディングを目的とした活動ではありません。
しかし、コールセンターの対応が悪ければ、ブランドイメージが下がるのと同様、採用活動において応募者への対応が悪ければ、その企業への信頼感が下がるのは当然です。
理念的には「誠実に対応する」という思いがあっても、タイミングによって、思いとは裏腹な表現になってしまうことが起きてもまったくおかしくないのです。ましてや従業員の数が多ければ多いほど、そのコントロール、すなわち社員一人ひとりの立ち振る舞いのコントロールは利きにくくなるはずです。
ワタシ自身、今回の採用活動において、「誠実に対応する」ことを理念に掲げていましたが、それが本当に100%できていたかどうか? なぜなら、やっぱりワタシも人間だからです。神様とちがって、理想よりもその時々の現実を優先して、知らず知らずのうちに、自分が予期せぬ行動を取っていたということも、ないとは言えません。それでも、理性が働いている限り、「誠実に対応したい」と思っているわけです。が、ある日ある時、理想を追い求める心が何かの影響を受けて揺らぐと、ワタシは悪魔のささやきに負けて、ぞんざいな対応をしてしまうかもしれない。
そういったことを考えてブランディングというものに目を向けると、その心の葛藤や自分と対話する過程はとても宗教チックなものなのではないかと思えてきました。なぜならとてもストイックな要素を含んでいるからです。
企業のブランディングでは、社員一人ひとりの思いや行動がその企業の理念と同一になっていなければなりません。極論を言うと、会社の理念が「右の頬をなぐられたら、左の頬を出せ」であるなら、その価値観が共有されていなければ、ブランディングは達成できないということになります。少なくても理屈上はそうです。
と、考えると、まるで宗教みたい。。。。
しかし、ここで新たな疑問が湧いてきます。そもそも宗教とは何であり、それに照らしたときにも、ブランディングは「宗教チック」だと言えるのか、と。(「そもそも」と考えるところが、さっすが、グラスルーツのしゃちょー!と自我自讃。。。)
個人的な先入観や直感で言うと、ブランディングは宗教チックなものではないはずだと思います。その理由? はてさて、何でしょうね。70秒ぐらい考えて、ワタシの脳みそが思いついた答えは、マーケティングの本質は乱暴に言えば損得勘定であるのに対し、宗教の本質は損得勘定ではない、というものでした。突き詰めて出した答えではありません。
このテーマは奥深いので、もっと考えてみたいと思います。