「いつでも行ける」は間違いの元
こんにちは。小野です。
シルバーウィークはいかがお過ごしでしたか。ワタシは、まとまったことはあまりできませんでしたが、チケットがあると誘われて文楽を見てきました。
「鬼一法眼三略巻」(「きいちほうげんさんりゃくのまき」と読むのだそうです)という題目で、弁慶と牛若丸を中心とした話でした。文楽に行くのは2年ぶりぐらいなのですが、ストーリーのせいなのか、人形の動きのせいないのか、観るたびにとても引き込まれます。さすがに今回は泣きませんでしたが、前回などは涙が出て来たほどでした。
ワタシは、文楽について語れるほど、見識は持っていませんが、馴染みがない人がまず思い浮かべるのは「話の内容がわかるだろうか?」という疑問ではないでしょうか。ワタシも最初はそう思いましたし、当初はガイド用のイヤホンを借りました。でも、プログラムにあるストーリーを予め読み、字幕を読めば、話の大筋は大抵わかります。
洋画の字幕が現代語訳であるのに対して(当然ですよね)、文楽の字幕は唄っている通りに出るので、その分、多少のわかりにくさはあるものの、基本的には日本語ですからね、話の流れぐらいはわかるものです。ただ、字幕を読みすぎると、人形の動きがわからなくなるので、上手にバランスを取らないと字幕だけ見て来たなどということになりかねません。
とかく伝統芸能はきっかけがないとなかなか観に行く機会が少ないもの。いつか行ってみたいと思いつつ、あっという間に年月が過ぎて行きます。
でも、伝統芸能に限らず、ライブで行われる公演はあくまで1回限り。同じ公演は2度と見られないものなのですよね。しかも、ライブ感の問題だけではなく、マイケル・ジャクソンが急死したことによって、ロンドン公演がなくなってしまったように、人が演じるもの、奏するものは、永遠に観られるわけではありません。後で悔やんでも手遅れだからこそ、行けるときに、観ておきたいものです。(かくいうワタシは、今でもステファン・グラペリの来日公演に行かなかったことを後悔してます)。
しかも、人的な問題だけではありません。たとえば、歌舞伎座は老朽化が進んだことから、来年4月の公演を最後に立て替えが予定されています。新しい劇場になれば、当然、空間的な情緒も変わってしまうでしょうから、立て替えの前にぜひ行きたいところですが、こんな駆け込み層も多いでしょうから、果たしてチケットが取れるかどうか…。
ついつい抱く「いつでも行ける」という気持ち。でも、行って何を得られるか、何を感じるかは、行く時代、季節などによってまったく変わります。いつかヴェニスは水没し、いつのまにか上海は近代化し、草木のなかった鬼押出しには今や草木が生えています。「いつでも」と考えるのは、間違えの元なのかもしれませんね。