[2010.02.21]
「死」は確実、「明日」は不確実。だからこそ今日を全うしたい。
クリント・イーストウッド監督の「ヒアアフター」を観てきました。本当は、「ソーシャルネットワーク」を観に行ったのですが、残念ながら満席だったため、予定を変更して、封切り初日であった「ヒアアフター」を観ることにしたのです。
公表されている程度に話を紹介すると、登場人物は3人。霊能力を持ちながら、その能力のおかげで人生を失ったと思っている、マット・デイモンが演じるジョージ。リゾート地で津波に飲み込まれて臨死体験をした、フランスのテレビ番組キャスター、マリー。双子の兄を自動車事故で失い、兄との対話を求めて彷徨うイギリス人の少年マーカス。死を巡る3人の別々のストーリーが、最後には結びついてひとつになっていきます。
人は死んだらどうなるのか。宗教観を持たないなら、死は『The End』であって、『無』でしかないということになるのかもしれませんが、それほど宗教に縛られていない日本人も、どこか輪廻のようなものを信じているような気がします。
しかし、この映画では宗教とは異なる次元でストーリーが語られていきます。死というものと向き合わざるを得ない状況にある3人が、死と向き合うことは生と向き合うことだと悟っていく、そんな印象を持ちました。
誰にでも平等にやってくる死。人がいつかは死ぬということだけは100%確実であるのに、明日も生きているかどうかは不確実です。しかも、不確実なのは生と死に限ったことではありません。幸福も不幸も、人生に起こるすべてのことは予測不能で、不確実です。
ワタシも含めて、多くの人はそんなことを考えながら日々暮らしてはいませんが、もし人生の中で何かが確実であるならあがきもしない。不確実だからこそ、より良くなることを思い描いて葛藤もすれば、あがきもするのではないでしょうか。
明日、自分の身に何が起きるか、今日巡り会った人といつか再び会うことができるのか、誰にもわかりません。だからこそ命が終わらない限り、もらった命を存分に使い切りたいものです。神様(が、いるかどうかはともかく)に与えられた使命を果たし、自分以外の誰かの役に立って生きること。それによって自分の存在意義を実感できたら本望ですね。そのためにもうひとあがきするとしますか。。。