[2011.01.24]
情という観点からプレゼンテーションを再考する
こんにちは、小野です。
今日は,単刀直入、「プレゼンテーション」について書きます。最近、「プレゼン」を巡って、いろいろ思うことがあったのですが、バラバラだった考えが段々まとまってきたので、自分の脳内定着のためにも書いておきたいと思います。
本当に提案は求められているのか?
皆さんも、プレゼンの機会は多々あるのではないでしょうか。プレゼンという名前で呼ぶかどうかは別として、何らかの考えをまとめて、相手に説明するというのは、日々あることです。
ワタシたちの仕事でも同様ですが、一番の舞台は何と言ってもコンペでのプレゼンです。お題は様々ですが、営業を仕掛けてのプレゼンではないことの方が多いので、提案を依頼されてプレゼンの準備が始まります。
提案を依頼されている。
しかし、その前提について、ワタシは一度白紙で考えてみることにしました。果たして、本当に提案が求められているのか、と。もちろん、求められているから頼まれるわけで、求めていないとは言いません。でも、良い提案であるかどうかが、相手にとって一番重要なことなのか、とそんなふうに自問してみたのです。あるいは、良い提案の選択基準はあるのだろうか、と。
「情」がクリアされなければ「理」は通用しない
話は飛びますが、1年ほど前に、自社でコンサルを探した際に提案をもらったことがあります。普段とは反対側の立場に立ってみて、気づいたことがあります。何人かの方とお会いして、提案をいただきましたが、正直なところ、もらった提案のどれが優れているのか、判断がつかなかったのです。またコンサルティングの依頼であるだけに、提案された方法というものが完璧にイメージできませんでした。
結局、自分たちの求めるゴールまで、誰が一番自分たちに合った形で導いてくれそうか、という、なんとも感覚的な判断で結論を出したのです。
「合っている」という意味にはいろいろなことが含まれています。人柄的に合っている。雰囲気的に合っている。期待に対して合っている。予算的に合っている。予算を除けば、すべて「理」ではなく「情」による判断をしたわけです。そして、仮に、理屈上は素晴らしい提案だと思えるものがあったとしても、感覚的に合わないと感じたら、恐らく選択しないのが人間なのではないでしょうか。
「この人は自分と同じ気持ちであるか」という目線
またまた話は飛びますが、先日、インナーウェアのECのナンバーワン企業である白鳩の池上社長とお会いしたときに、こんな話を聞かせてくださいました。
「営業というのは信用を売り、人格を売ることだ。信用というのは、この人は自分のことを理解して、自分と同じ気持ちになってくれる人だと思われたときに築ける。同じ意見でも、信用しているときには聞く気持ちになるが、信用していなければ反発したくなるのが人間だ」
この話を聞いて、今までわかっていたつもりでいたけれど、本当にはわかっていなかったのではないかと、そんな気持ちになりました。
同じようなことを神田昌典さんも本の中で書いています。多くのプレゼンは「よく勉強してますね」とは思ってもらえるだろう。しかし、相手の気持ちにあるのはそれだけではない、と。
ワタシたちのプレゼンは、はまったときには「愛がある」と思ってもらえます。本当に相手の企業のことを考えて,考え抜いていることが伝わったときです。その場合、では実際何が良かったのかと振り返ってみると、中身の論理性ではなく、多分「期待に応えてくれそうだ」「期待に対して合っている」と相手がイメージできたことが良かったのだと思います。でも、はまるツボというのは、ケースバイケース。「よく勉強していますね」としか思われなければ、まったく意味を成しません。
あるべき論も大切ですが、心の方からプレゼンにアプローチすることの方が最近は大切だと考えています。
皆さんはどうお考えですか。