「論理性より感受性」ってことも〜映画「ミッドナイト・イン・パリ」を観て
先週、ウッディ・アレン監督の映画「ミッドナイト・イン・パリ」を観ました。アカデミー賞やゴールデングローブ賞を獲得している本作品、私はウッディ・アレンファンではありませんが、うわさの通り、とてもおもしろかったです。
おもしろかったのは事実なのですが、では、いったいどこが、なぜおもしろかったのかと聞かれたら、一言では言いがたい映画でした。映画のシナリオライターとして活躍しながらも、空しさを感じて、小説を書こうと志す主人公が、婚約者やその両親と一緒にパリに滞在する間に起きた摩訶不思議な出来事を描いたこの映画、主人公が毎晩深夜0時にタイムスリップする、しかも行き先はゴールデンエイジの1920年代…と、こんなストーリーです。タイムスリップしている間にはフィッツジェラルド、ヘミングウェイ、ダリ、コール・ポーター等々、そうそうたる文化人に出会ったり、タイムスリップしていない間も婚約者や彼女が惹かれる似非教養人との複雑な関係があったりとストーリー自体もなかなか気が利いているのですが、おもしろかった理由がそれだけかと言われると、どうも違う気がします。
では、何なのか? 私が出した結論は、「映画自体が、論理性を気にせずに作られていたこと」でした。SF映画の題材となりやすいタイムスリップを扱いながら、まったく論理的な説明がなかったところが面白かったのだと思います。意図してかどうかはわかりませんが、主人公が自分の書いた小説をガートルード・スタインに見せた後、つぶやく場面があります。それは、自分が作品を書くときに、論理性を気にしすぎていたかもしれない、というような内容でした。
シンデレラがカボチャの馬車に乗って舞踏会に行くのと同じように、この映画では、タイムスリップの「なぜ」を考えてはいけないのだと思いました。むしろ、「ハリーポッター」や「アリス・イン・ワンダーランド」のような楽しみと、現実の大人の葛藤のミックス。それを楽しむ映画なのでしょう。とてもおもしろかったです。
さて。。。論理性という切り口で自分自身を振り返ってみると。。。
ワタシをよく知ってくれている人は別として、少しだけ知ってくれている人からは、「オノさんは論理的な人だ」と見られている気がします。でも、実際のワタシは「論理性より感受性」の人間です。ワタシの仕事では論理性は不可欠ですし、父親譲りなのか、理屈や筋を重んじる志向があるのは事実ですが、素の自分を言うのなら、感性型なのですね。20代の頃、400字詰めの原稿用紙で10枚ぐらいの、短いファンタジーをたくさん書いていたこと、ふと思い出しました。いずれも、理屈とは切り離された物語でした。
仕事では、論理性から逃げることはできません。誰かと、何かを共有しようとしたら、相手が納得できる説明が必要になるからです。でも、仕事以外の世界では、論理で説明できないことがあると自覚すべきかもしれません。宇宙のこと、死のこと、脳のことなど、現代科学でさえ未知なことは多々あります。
ワタシの理想は、感受性の上に論理性があること。論理性にも、感受性にも偏りすぎないこと。それが、健康なカタチではないかと思いますが、いかがでしょうか。みなさんは、どう思いますか?