「人と人とは分かりあえない」という事実に「言葉」を生業にする私たちはどう向かうべきか
先日、ある人がこんなことを言いました。「言葉が万能であるかのようにずっと思っていた。だからこそ、話している相手が悩んでいれば、詳しい事情や背景について言葉を頼りに知ろうとし、それがわかればその先に解決策があると思い込んでいた。けれど、それは間違っているのではないかと考えるようになった」と。
これはまさに「言葉」や「コミュニケーション」に携わる私たちへの警鐘のような話で、大いに共感しました。
私自身は、「言葉」の力を信じながらも、「そもそも人と人とは分かりあえない」という考え方を自分の大原則にしてきました。たとえ、夫婦だろうが、親子であろうが、人はそれぞれ別の生き物であるのだから、100パーセント理解し合うことなど不可能だ、と。それに異論のある人は、あまり多くはないのではないでしょうか。それでも、「言ったはずだ」というような会話をよく耳にするのは、言えば分かると思っている人が多いからなのだと思います。
「言葉」に携わり、「言葉」の力を信じて仕事をしている私たちは、「人と人とは分かりあえない」という事実とどう向き合うべきか。とても大切な問いであると思います。
難しい問いなのですが、ワタシ自身はこう考えています。分かり合えないからこそ、一生懸命分かろう、一生懸命伝えようと努力する必要があると。
たとえば、話し言葉であれば、相手が「イエス」と言ったとしても、本当にその言葉通りに「イエス」と思ったかどうか、心を研ぎすませて汲み取ることが必要です。「ノー」の場合も同じです。
以前、ある会社を訪問した際に、社長の言葉を二人の部長がまったく正反対に解釈しました。一人は、それは良くないからやめろと言っていると解釈し、もう一人はこういう視点を加えて考え直せと言っていると解釈しました。確かに、ネガティブな表現だったので、言葉通りに受け止めると「『やめろ』と言っている」と解釈するのも無理からぬことでしたが、その場に居合わせたワタシの解釈も後者の部長と同じで、やめさせることが真意ではないように聞こえました。結果論的に正解はわかりませんでしたが、同じことを聞いても、こうも理解が変わってしまうのかと愕然としたことだけは記憶しています。自分自身を振り返っても、できているとは言えませんが、言葉を発する人は相手の理解を見極めながら話し、言葉を受け止める人は言外の意味も含めて理解しようとしないと、こういうことは日常的に起きると思います。
書き言葉の場合は、読者が目の前にいるわけではないので、話し言葉以上に配慮が必要です。それは、言い換えれば、読者の気持ちに対して想像力を張り巡らせて書くということなのだと思います。話し言葉であれば、少なくとも目の前に理解すべき対象がいますが、書き言葉の場合は誰が読むだろうかと想像することが必要ですし、さらにどんな気持ちの人に読んでもらいたいのか、読んだ後にはどんなふうな読後感を得てほしいのか、話し言葉以上に想像力が必要だと思います。
当社の場合、直接お金をいただいているのは、書き言葉においてですが、サービスレベルを左右するのは、むしろクライアントとの話し言葉だと思います。ですから、話し言葉も書き言葉も、どちらも侮ってはいけないと思います。
「言葉」を生業にしている私たちは、人と人はどんなに「言葉」を尽くしても分かり合えないということをしっかり認識し、伝えれば簡単に分かってくれるのだというような不遜な気持ちを抱かないようにしないといけないな、と改めて痛感しました。
謙虚な気持ちで「言葉」というものを取り扱いたいと思います。