ウソはなぜいけないの?
先月は聴覚障害疑惑とゴーストライター問題で佐村河内氏がウソを謝罪し、今月はSTAP細胞で話題を呼んだ小保方氏に対して疑義が生じています。いずれも実態がどうであったのかはさておき、「倫理」というものに対し、社会の関心が急激に高まったのは事実ではないでしょうか。先週のニュースサイトのランキングでは小保方さん関連のニュースが上位の大半を占めたそうです。
週末、高校時代の部活のOG会があり、久しぶりに集まったのですが、話はあっちに行き、こっちに行きしながら、途中で小保方さんの件が話題に上りました。同情派もいれば、やっぱりマズいよねという人もいれば、理化学研究所の責任問題を語る人も。
それで、ふと「倫理」って、そもそも何だろう? なぜウソをついてはいけないんだろう?という疑問がわいてきました。確かに、子どもの時に、「ウソをついてはいけない」と教わります。ウソをつくと、針千本飲まされるほど、ウソは悪いことだ、と。もちろん、感覚として人を騙すのは悪いことだとわかっていますが、なぜ?と考えたことはありません。
誰もが知っているイソップ童話「狼と羊飼い(オオカミ少年)」にあるように、「オオカミだ!オオカミだ!」と言っていると、やがて信じてもらえなくなるから、と説明するのは簡単ですが、その説明では「別に誰にも信じてもらえなくてもいい」という人には通用しませんよね。
ウソには、「人のため」につくウソと、「自分のため」につくウソがあるそうです。
O・ヘンリーの「最後の一葉」は前者の代表格ですよね。
自分のためにつくウソは、さらに2種類に分かれていて、1つは自分を守るために「自分を騙す」ウソ、もう1つは自分の欲求(利益を得たい、恐れから逃れたい等)を満たすために「人を騙す」ウソだそうです。「別に愛されなくたっていいもん」と自分に思わせるのは前者ですね。反対に、オレオレ詐欺も、佐村河内氏のウソも、食品偽装表示も後者に入りそうです。
ということは、「針千本飲まされる」と教えられてきたウソというのは、「自分のために人を騙すウソ」ですね。そうしたウソはいけないと、モーゼの時代から暗黙裏に社会で合意されているのは、おそらくウソを是とした社会と非とした社会を比べた時に、非とした社会の方が明らかに暮らしやすいから、、、なのかもしれません。騙してもOK、騙される方が悪いという価値観の社会だと、年がら年中、騙されはしないかとびくびくし合ってしまい、暮らしやすいはずはありませんから。疑義が生じると社会から叩かれるのも、そうした暗黙のルールが存在しているからにほかなりません。
一方で、海外旅行などに行った時には、騙し合いは当たり前という文化に接することもありますし、日本でも後からいいがかりをつけてお金を払わない、といった商売をしている企業や、労働条件でウソを言うブラック企業もあると聞きますから、そんなにきれいごとでは済みません。
ところで、自分のために自分を騙すウソは、どうなんでしょう? 誰にも迷惑をかけていないですし、罪はないような気がしますが、よくよく考えてみると、周りの人をがっかりさせたり、さみしい気持ちにさせることはありますね。失恋した親友から「あんな男の一人や二人、こっちから別れてやる」と聞かされたとしたら…? 強がっているのがわかりすぎて、ワタシなら寂しいな。ワタシを信頼してくれていたら、本当の悲しみを話してくれるはず…と思うから。でも、ワタシにもあります。本当は「いいもん」とスネているのに、それに気づけないこと、あるいは気づいているのに言えないことが。
ウソの心理。奥が深そうですね。