作文が苦手な人へ贈る!「一番大切なのはメッセージ」
こんにちは。オノです。
今日は、「文章を書く」をテーマにお届けします。実は、ワタシ、ここ数カ月間、書くことに関してスランプに陥っています。ブログやメルマガを書くのに、以前の3倍以上、下手すると4倍とか5倍の時間がかかることがあります。書き上がっても、パッとしないと感じることが少なくありません。原因は一つではないから、やっかいですが、ここでそれをボヤいても仕方ありませんよね。。。
病気にかかった医者が、病気の予防の話をしても説得力に欠けるように、今のワタシが文章について語るのもどうかなぁ...と思いますが、書けない辛さを実感すればするほど、書くコツを人に伝えたくなるという、パラドックス的な野心に目覚めました。そこで、今日は、文章に関する間違った刷り込みを払拭していただきたくて書くことにします。
良い文章はメッセージが明瞭
早速ですが、文章に関する間違った刷り込みとは何でしょう?
それは、「良い文章とは?」に関するもの。あなたは「良い文章=自分が思ったことや考えたことを、わかりやすく伝える文章」と考えていませんか?
「え? 違うの? どこか間違っているの?」と思う方が多いのではないでしょうか...。でも、断言します! その考え方に立っていると、決して良い文章は書けません。ワタシの定義では、「良い文章=自分のメッセージを、わかりやすく伝える文章」です。こう言われると、あなたは今度はこんな疑問を持ちますよね? 「自分が思ったことや考えたこと」と「メッセージ」の違いは何なのか、と。
そう、そこです! そこがとても重要です。でも、重要であるにもかかわらず、学校教育の作文指導において、「メッセージ」という概念はほとんど登場しません。「メッセージ」を端的に言うと、「主張」です。でも、ワタシの表現では、単なる主張ではなく、相手に対し、そのメッセージのように「やってみよう」「変えてみよう」「考えてみよう」など、何らかのアクションを促すような提案的発信ということになります。それが、「メッセージ」の本質である、と。つまり、英語の「Let's〜」という感じに近いですね。アクションと書きましたが、「立ち止まってみよう」でもいいし、「振り返ってみよう」でもいいのです。
一歩譲歩すれば、「Let's〜」ではなく「私の主張は〜です」も「メッセージ」と呼べないことはありません。でも、読者は、自分とどう関係するかがわからないと、「メッセージ」としては弱く感じてしまいます。
「メッセージ」が一番重要というワタシの主張。あなたは「ほんと?」と懐疑的に思ったかもしれません。であるなら、面白いと思う文章と面白くないと思う文章、読みたくなる文章と読みたくない文章を比較して、違いを調べてほしいのです。面白くて、読みたくなる文章には必ず「メッセージ」があります。読者がその「メッセージ」通りに行動するかどうかは別問題ですが、「メッセージ」は読者の興味を引き寄せられるかどうかに影響を与えます。そもそも文章というのは「メッセージ」(主張)を伝えるための手段ですから、メッセージがない文章というのは機能を果たしていないと言ってもいいくらいです。
報道には「メッセージ」がないのでは?という人がいますが、ワタシは必ずしもそうとは言い切れないと思っています。報道は、ニュートラルな立場であることを彼ら自身の立場表明の前提にしていますが、実際には主張はあるのではないか、と。たとえば、報道機関が行ったインタビューの内容は全文掲載されることは稀ですし、ポジティブなタイトル、ネガティブなタイトルをいくらでも付けることができます。
社内報はニュートラルであるべきで、「メッセージ」は要らないということをいう人もいますが、それも間違いだと思います。というか、それは「メッセージ」を出して波風が立つのが困る、だから当たり障りのないようにということですよね。であるなら、わざわざ経費を使って社内報として発行する必要はあるでしょうか。【発信=メッセージ】です。社内報にも当然メッセージは必要なのです。
学校教育で教えるのは「思ったことを思ったままに」
ところが、私たちは学校教育から別のことを刷り込まれています。私たちが作文の授業で教わるのは、「思ったことを、思ったままに書けばいいんだよ」というもの。そして、学校行事や読書を通して「思ったこと」を書かせるスタイルで授業が行われます。作文教育の考え方が「思ったことを、思ったままに書く」なのですから、当然、作文の型は教えません(読解力を養うために、起承転結などの型は教わりますが)。私たちに刷り込まれるのは、「良い文章=自分が思ったことや考えたことを、わかりやすく伝える文章」ということです。実はこれは、明治の教育に対する疑問や反発が大正時代に生まれたからだそうです。明治時代には、文章の型を教えていたらしいのですが、大正時代になって明治のそれを形式模倣主義と見なし、排除したらしく、そこから「思ったことを思ったままに」という教育方針が定着したようなのです。
そうすると、どうなるか。『21世紀の学力〜作文力をつける』の著書・樋口裕一氏のブログによれば、多くの子どもは出来事の羅列に終始して、最後に「友だちと仲良くしていこうと思います」「来年ももっとがんばりたいと思います」と、努力目標で締めくくるパターンで書くようになります。恐らく、子どもは子どもなりに、その出来事を通じて自分はこのように成長したと表明することが作文では期待されていると察知しているから、そのように書くのでしょう。
実は、この傾向は大人が書く文章にもよく見られます。主張のない本文(多くの場合は紹介文)を書いた後、最後にポジティブに「がんばります」でまとめるというパターンがそれです。語彙や構成は違っても、まさしく子どものときに学んだ作文スタイルと同じです。
型を知ったからこそ、型を破る自由も得られる...と良くいいますが、不幸なことに、日本の教育では「思ったままに」と教えられた結果、自信の持てる型が存在せず、暗黙知的な型に縛られて自由になれない...日本人の思考表現はそのような状態にあるのではないでしょうか。
「メッセージ」、それは世界に発信するためのスキル
型を教えない日本の対極にあるのが、アメリカです。ベネッセ教育総合研究所が2006年に行った渡邉雅子氏へのインタビューによれば(渡邉氏は各国の思考表現のスタイルや教育に関する専門家で現在は名古屋大学教授)、アメリカの小学校5年生は12種類もの文章様式を学ぶそうです。具体的には、物語、詩、説明文、エッセイ(小論文)、ビジネスレター、親密な手紙、レポート、インタビュー、広告、自伝、ブックレビュー、戯曲などです。そして、たとえばエッセイ(小論文)の文章様式では、「最初に主張を述べ、次にその主張を裏付ける証拠を三つ挙げて、最後に結論として再び主張を繰り返す」という構造を書きながら学習するそうです。つまり、多くのアメリカ人はエッセイ(小論文)=主張と教え込まれています。そして、その「主張」というのは、ワタシが言う「メッセージ」とほぼ同義だろうと思います。
多くの日本人は、主張すること自体に慣れていませんし、ましてや「Let's〜」で語るというのは慣れていません。
けれど、世界の人々にとってはもちろん、日本人にとっても、「メッセージ」のない文章やスピーチには振り向く理由がありません。2020東京五輪招致プレゼンが審査委員を振り向かせたのも、明快な「メッセージ」があったからだと思います。
文章と向き合う時に、「自分は読者に対し何を提案し、どう行動してほしいのか」を先に整理し、「1行でまとめる...」、そんなことを意識するだけで、思考がすっきりしてきて書くのがラクになります。
外国人が上司になったり、部下になる。そんなことが人ごとではなくなりつつあります。そういう環境に備えて、文章で一番大切なのは、構成や一文一文の修辞ではなく、「メッセージ」だと理解しておくことが大切ではないでしょうか。文章作成において重要なのは、「メッセージ」が8割。それを今日のワタシからの「メッセージ」にします。