「禅」とは「単純に示せ」だったのね
(ちょっとお知らせ)
本題の前に速報でニュースをお知らせします。
当社で企画制作に携わっているアサヒグループホールディングス株式会社様の社内報「HOP!」が、第13回全国社内報企画コンペティションにおいて、今年も入賞いたしました。入賞したのは、「この仕事にして、この技アリ〜となりの達人訪問」(ゴールド企画賞第1位)他、複数作品です。今年は過去最高の435企画の応募があったそうで、そんな中、第1位という高い評価を獲得することができたのは、率直にうれしい限りです。ウチのスタッフもがんばった! おめでとう&ありがとう! 詳細は追ってご報告します!
https://commu-suppo.net/pdf/award/2014-award_list.pdf
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さて、、、
あなたは「今ここ」と聞いて、何を思い浮かべますか? もしかしたら、スマホ用の地図アプリを思い出した方もいることでしょう。
このようにお尋ねした理由は、この週末の土曜日、リーダーシップを学ぶ仲間が開催したワークショップ「禅と今ここ〜初心者向け坐禅体験」に参加してきたからです。「今ここに生きる」という言葉は、禅に限らず、哲学などの精神世界では昔からあったようですね。今回は、ただその入り口に立って、奥を覗いて来ただけなのですが、共感できるなぁと思う話を、いくつか仕入れることができて、素敵な体験でした。
坐禅の「坐」は、「土」の上に「人」が二人いることを表したかのような文字です。この二人は、自己の二面性を表しているのだとか。良く考える自分と、悪く考える自分。前向きな自分と後ろ向きな自分。坐禅をするのは、相反する二者択一の世界から離れて、心をからっぽにし、心身脱落することで、自分を輝かせ、宇宙のすべてのエネルギーを自分のものとして発揮できるようにするため...ちょっと端折りすぎかもしれませんが、ワタシはそのように理解しました。自分が持っている力だけでなく、宇宙の中にあるすべての力を得て、その力を発揮することを「全機現」(ぜんきげん:すべての機能を現す)というそうです。
論理的な疑問としては、なぜ「心をからっぽにする」と、「力を発揮」できるのか、です。まあ、スポーツなどの世界でも、無心や平常心で勝負に臨むと言われるので、感覚的にはわかりますよね。邪念が大敵だと。スポーツの世界ではなくても、人は放っておくと、相反する二者択一の世界に身を置いてしまい、邪念にがんじがらめになり、ひいては自分で自分を縛ってしまいがちです。邪念があると力を発揮できなくなる、だから心をからっぽにすることが重要...ということだと思います。
そして、「今ここに生きる」というのも、人は「ああなりたい、こうなりたい」と思う自分と、「今の自分はまだほど遠い」と思う自分の間で、そのギャップに悩みます。言い換えれば、未来への希望と現在への不満、その間でもがくわけですね。この考えの根底にあるのは、希望を叶えた後の未来にこそ価値があるという意識です。そのような意識に陥りがちな私たちに対し、「今ここに生きる」という言葉は、「いやいや、今、目の前のことと向き合ってこその未来であり、今なくして、未来はない」ということを教え諭してくれます。
で、心をからっぽにするために、なぜ坐禅なのか...なのですが、、、
身を調える「調身」と、息を調える「調息」をきっちりすると、自ずと心を調える「調心」ができる、そのような考え方だと教わりました。これも、理屈抜きにして、なんとなく実感がありますよね。落ち込むことがあったときこそ、視線が下向きにならないように、視線を上げ、姿勢を良くしようと思ったりしますし、自信を持って臨むべき時に不安に陥りそうになった場合も、姿勢を正して、呼吸を整える、というようなことを無意識に行っている気がします。
さて、実際に、座って、視線を定め、息を吸って吐いて...してみた体験は?
坐禅の時間は、「一炷」(いっちゅう:線香一本が燃焼する20〜30分の時間)が一単位で、今回は、「二炷」(20分を2回)行いました。当初、想像していたよりも、坐禅用のクッションがあるなど、ワタシが抱いていたイメージよりは厳格でなくても許される印象を持ちました(実際にはもう少し厳格なのかもしれませんが)。でも、カラダの固いワタシは100%ルール通りの形では座ることができませんでした。つまり、ルール通りに座ろうとすると、カラダに無理が出て集中もできなくなるので、それが一番のハードルでした。
「警策」(眠気などに負けずに気を引き締めたいときに、木で打ってもらう)も体験しました。思った以上に痛いのですが、実際に身が引き締まりました。
全体としては、カラダが固いからなのか、最初の20分でメチャメチャ足が痛くなったにもかかわらず、帰って来てから、アマゾンで坐禅クッションを検索している自分がいて、結構、キライではないな〜と思っているところです。
「禅」という文字が、「示す偏」に「単」と書くのは、「単純に示せ」という意味から来ているそうです。シンプルに考える。シンプルに生きる。そんな思想に憧れる人が、最近ますます増えているような気がします。ワタシも、そのような考え方に共感するし、実践できたらなと思っています。なので、まずは、今週のセミナー、なるべく「単純に示せるように」がんばります!