「場」を読む、「場」を創る
アメリカでは、白人警察官が黒人を死亡させた事件を大陪審が不起訴にし、デモが起きています。いったいなぜこのようなことが続くのでしょうか。審議の場で、どのようなことが行われているのでしょうか。しかし、大陪審の審理は、そこで語られた内容を明らかにしてはいけないことになっています。今日は、そんなことを糸口に、「場」というものから、コミュニケーションを考えたいと思います。
まず、今、挙げたアメリカの警官不起訴問題。私は、審理が密行的に行われるからこそ、起きてしまうことがあるのではないかと、推測しています。
たとえば、オープンにされない状況に置かれると、誰かが周りの陪審員の心理を作為的に操作することはいくらでもできると思います。たとえば、警官を無罪にしたいある陪審員が、この事件での警官の行為は有罪に値すると考えている別の陪審員の弱みを握っていたとします。仮に、そこにさりげなくプレッシャーを掛けたら...。相手は自分を守るために、にらまれないように行動してしまうかもしれません。あるいは、議論を行う中で、自信を持って堂々と発言する声の大きな人に、周りが引っ張られるということは、社会では日常茶飯事に起きます。声の大きなその人に周りの人を操作しようという意識がなくても、自分の主張を通したいという意識はあるはずです。
こうしたことが起きると、その「場」に何らかの力関係、つまり「場」を支配する者と、支配される者という関係が生じて、個々の人がニュートラルに判断しているとはいえない状況が生まれるのではないでしょうか。しかも、その「場」にそのようなことが起きていることに、意外と人は気がつかなかったりします。
なぜ、気がつかないかというと、そもそも一見すると強固なものに思える「事実」という概念が、意外にも脆いものだということに、思いを巡らす人が少ないからです。一般的には、「事実とは、本当にあった事柄」と受け止めますよね。ところが、出来事というのは捉え方にもよるので、結局、何が本当にあった事柄なのか、各自各様の解釈をしているだけで、実は本当の一つの事柄など誰にも言えない。
たとえば、昨日は早朝から16時頃まで雨が降っていたとします。それを、ある人は、「天気が悪い一日だった」と思うでしょう。でも、その後、一瞬、素晴らしい青空が見えたことが、別のある人にとって強烈に記憶に残ったならば、その人は「昨日の天気は悪かったどころか、晴れ渡った青空が印象的な一日だった」と語るに違いありません。
でも、多くの人は事実は一つだと思っているので、声の大きな人が「天気が悪い一日だった」と言えば、それほど鮮明な記憶がなければないほど、「そうだった、天気が悪い一日だった」と思ってしまうのではないでしょうか。
事実とはアテにならないものだと思った体験を、今から10年ほど前にしました。当社は事務所の大家さんを相手に訴訟を起こしたことがあります。転出しても、保証金を返してくれなかいことがその理由でしたが、そうしたら何と逆提訴されました。どんなことをされたかと言うと、「あること、ないこと」ではなく、「ないこと、ないこと」を書類にされ、訴え返されました。まるで作り話です。幸いにも、裁判は当社が勝ちましたが、まるで事実であるかのような資料が公に出されることに、非常に憤慨しましたし、恐怖を感じました。と同時に、こんなに簡単に事実風なことは創られるのだと知りました。それ以来、「これは事実」と私が思っていたことが、果たして本当なのか、思い込みではないのか、自分の感覚に注意を払うようになりました。
この裁判で起きたことも、「場」をどちらが支配するのかの戦いだったと思います。もちろん、それは弁護士が担うわけですが、「場」を支配した方が勝つわけです。
さて、、、、
リーダーは「場」を読むことが重要だ、とは良く言われることです。そして、空気を読むという言葉があるように、日本人はどちらかと言えば、読み過ぎなくらい、場を読むのが上手な国民らしいです。けれど、リーダーが空気だけ読んで行動すると、「迎合」が生まれ、それはそれであまりいいことはありません。
また、「場」を読むと同時に、「場」を創るのも、リーダーには必要なことですが、自分にとって好都合の「場」を創ることにだけ埋没してしまうと、、実はとても危険ですよね。映画「スターウォーズ」の中のダースベーダーがそれを物語っています。映画には、暗黒側へ落ちてはいけないという、とてもわかりやすいメッセージが込められています。
どうやって「場」を読み、「場」を創るか。意識的、無意識的なことはあるにせよ、多くのリーダーはそういうことと日々格闘しているのではないでしょうか。そうした中で、周囲に迎合して「場」を読みすぎず、自分のために計算して「場」を創りすぎず、周りの人を考えた上での自分の信念のために「場」を考えられる人、それが本当のリーダーだなと思います。私自身、これについては60点です。年中、スベっていますし、今もって修行中です。「場」という切り口で、ご自身を振り返る、おススメします!