「我慢」という罪
今日は我慢強い、忍耐強いということが本当にいいことなのか?という話です。
心理学者アドラーが「すべての悩みは対人関係の悩みである」と言ったように、
人間関係はストレスの最大原因といっても過言ではありません。
ストレスを抱えてしまう人は「我慢」しようとする傾向が強いと言われます。
やりたいことや希望とは裏腹なことに直面しても我慢する、
イヤなことを頼まれても何も言わない、
ネガティブな感情を出してはいけないと思っている、
波風を立てるようなことは避けたいと思う、
言いたいことがあっても飲み込んでしまう、などなど。
これを聞いてどう思いますか?
全然、特殊なことではありませんよね。
私にも当てはまるし、恐らくあなたも自分ごとに感じられるのではないでしょうか。
◆「我慢」を是とする価値観はどこから?◆
この「我慢」を是とする価値観はどこから来たのかと思い、調べてみました。
東洋的なものなのかといえば、必ずしもそうでもなく、
たとえば新約聖書「ローマ人への手紙」にも次のような記述があります。
「忍耐をもって善を行ない、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、
永遠のいのちを与え...」(2章7節)、
「忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す...」(5章4節)。
しかし、福音総合研究所のスミス牧師の解説によると、
この「忍耐」は「しょうがないから、我慢しよう」というようなものではなく、
「信仰と希望をもって積極的に頑張って生きる」ことであるそうです。
では、仏教はどうなのでしょう?
仏教用語での「忍耐」とは「心の平安や平和」を意味し、
「忍耐しなさい」は、「落ち着いていなさい、平和な心を保ちなさい」の意。
仏教でも、「忍耐」は苦しいことを耐え忍ぶことではなく、
まして「我慢」に至っては、煩悩の一つなのだそうです。
自分を偉いと思い、他人を軽んじることであり、
自分に執着することから生まれる慢心が「我慢」なのだとか。
「我慢」を是とする価値観は、どうも仏教から来たとは考えにくいですね。
では、私利私欲を捨てて公のために生きることを是とした武士道の影響か?
「和をもって尊しとなす」という聖徳太子の言葉にあるように、
個よりも集団の「和」を重んじる大和時代からの精神性の影響か?
その答えはわかりませんが、国民的な刷り込みがあるように思うのは、
私だけではないと思います。
◆「我慢」は自分への執着◆
根源はさておき、私たちが人間関係で「我慢」している状態というのには、
共通点があります。
・自分と誰かとの関係において、自分が願うことと違うことが起きている。
・それを言うと、相手を傷つけたり、波風が立ちそうに思えたり(恐れ)、
言ったところで、変えられそうにないと思える(諦め)。
波風を避けたいというのは、防衛本能から来るものでしょうし、
諦めるというのも、願って叶わない結果になるのがイヤだという心理でしょうから、
これもまた傷つきたくないという防衛本能が根底にあると思います。
まさに「我慢」の本質は「自分への執着」だと思えてきて、
仏教の教えは真理を突いているなあと感じます。
自分を守ろうとすると、相手は遠のく。
それは信頼関係を築くこととは反対のベクトルにあるものです。
本来は、相手との間に「和」を築きたいのに、結果的に反対方向に向かってしまう。
これは、自分にとっても、相手にとっても、悲しいことに違いありません。
自分に背くことを罪とするなら、「我慢」はまさに罪だと言えます。
◆相手に「我慢」をさせてない?◆
けれども、では我慢をした方だけが悪いのでしょうか。
たまに部下から「ずっとこう思っていた」と打ち明けられることがあります。
それは大抵の場合、言いたかったけれど、これまで言えなかった話です。
そんな時、そこで打ち明けてくれたことは良いことなのに、
「なんでもっと早く...」という気持ちが私の頭の中をよぎるんです。
一瞬ですが、心の中で相手を責める。
未熟な私の防衛本能ですね。
そして、そこからめっちゃ反省モードに入って、
言いやすい関係になれていなかったんだろうな...
信頼関係に慢心があったのかもしれないな...
サインを出してくれていたいのに見逃していたのかもしれないな...など、
自分にダメだし。
だから、、、
自分が我慢をしているときには、
我慢は「自分への執着」であり、自分に背く「罪」だと思い、
相手が我慢をしているとわかったときは、相手を責める前に、
自分を振り返って相手の気持ちを大切にする人間でありたいものです。
仏教の修行をしたくなりました。
読んでいただき、ありがとうございます!
どうぞ素敵な1週間を!