言いやすい人でいたい
先日、会社のビルの1階にあるコンビニでコーヒーを買って、
フタをしようとしていたら、フタがなかなか閉まらず、
ちょっとあたふたとしていたんです。
そうしたら、同じくコーヒーを待っていた40前後の女性が、
親切にも「閉まりません? ちょっとやってみましょうか?」と言って、
私のカップのフタを閉めてくれました。
閉まらなかった理由は、おそらくキャップが不良品で、
サイズが微妙に小さかったから。
彼女は「あれ、おかしいな」と言って、そのフタを諦め、
別のフタに取り替えて、そうしたらうまくフタが閉まりました。
その間のやりとり、約1分半でしょうか。
私は、最初はあらら、こんなことで手を煩わせてしまって
申し訳ないなと思いましたが、
フタが閉まった瞬間、とっても幸せな気持ちになりました。
と同時に、なぜ彼女は手を差し伸べてくれたのだろうと不思議に思いました。
実は、そのちょっと前に、社内のある人との間でこんな話が出ました。
おせっかいはしない方がいいと思いがちだけれど、
それはもしかしたら間違いかもしれない、
おせっかいかもしれないと思っても、オノさんは、
手助けをしたくなる雰囲気を持っていますよね、というような話だったか、
あるいは、おせっかいという気持ちを抱かせない、というようなことだったかな?
詳細は忘れてしまいました。。。何しろ褒められたみたい〜♪
もし、このコーヒーの例のように、
見ず知らずの人が私を助けたく思ってくれるなら、
これは私のスゴい才能なのかもしれません(笑)
見ず知らずの人は別として、いろいろな人に助けられているという自覚はあります。
でも、なぜ助けてくれるのかはわかりません。
助けてもらうコツは?と聞かれても答えられません。
それでも、もしかしたら関係あるかもしれないと思うことが1つだけあります。
それは、言いにくいことも言いやすい人でいたい、
オープンな心でいたい、そうずっと願ってきたことです。
これは多分、10代か20代か、そのくらい昔から願っていました。
本能的に、直感的に、人が躊躇しないで発言できることが、
自分にとっても、他の人にとって大切だと感じていたのだと思います。
ありのまま、思ったままを発言できること、
自分自身がそうでいられない状況は窮屈だと感じるので、
だからこそ、まず自分は「言いやすい人」でいたいと思ったのでしょうね。
で、私自身が今、どこまでそれを体現できているかどうかとか、
言いやすいことと人が助けてくれることに因果関係があるかどうかはともかく、
言いやすい人/言いやすい関係が増えることは社会にとって良いこと、
これはまんざら間違っていないと思います。
では、いったい「言いやすい人」とはどんな人でしょうか?
「言いやすい人」は「波風立てない、いい人」でしょうか?
「言われたことにそのまま応える人」でしょうか?
そうではないことは、なんとなくわかりますよね。
で、「言いやすい人とは?」のその答えは、
相手の発言自体(言われたこと)をどう位置づけるかで、変わってきますよね。
言われたことを、指摘である、文句である、リクエストである、
期待に応えるべきことである、相談である、受け流せば良いことである、
コミュニケーションの入り口の情報である...。
このように言われたことをどう位置づけるかで、
受け止める時の自分の感情自体が随分変わりますよね。
相手の言葉を文句と位置づけたら、単純に反発したくなりますし(笑
私自身は、言われたことを
・コミュニケーションを深めるための入り口にある情報
・相手が寄り添ってほしいと思っている感情
こんなふうに受け止めるようになり、それによって、
ニュートラルに受け止めることができるようになりました。
(もちろん人間ですから未だに不完全ですが、、、苦笑)
防衛的でなく聞く。
攻撃的でなく言う。
これだけで、社会はもっと快適になると思うんですよね。
そのような考えから、当社では先週から勉強の場として
「育自プロジェクト」を展開中です。
これは、まさに「防衛的でなく聞く」「攻撃的でなく言う」の実践。
社会がそうなってほしいので、まずは自分たちからそうありたいと思います。
そして、私たちは仙人ではないので、実はそんなに簡単にはできません。
それでも、やってみて、軌道修正し...それを組織として繰り返していくことが
とても大切だと思います。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。
素敵な1週間をお過ごしください!